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「近江牛肉」の歴史 第一章

間の食生活は肉食から始まったといわれています。貝塚などから出土する獣の骨はその証拠で、七、八世紀ごろは内臓の塩漬けが調味料でした。しかし、その後わが国では一般に仏教思想から、牛や豚の肉を食べなかった長い歴史があり、最初の食肉禁止の勅令は「壬申の乱」で吉野から近江に攻め込んだ天武天皇が出しました。

教の伝来とともに禁止されていた肉食が復活したのはキリスト教とともにポルトガル人の宣教師によって広められてからで、戦国時代に秀吉の小田原城攻めのとき、豊臣秀吉・徳川家康・細川忠興らは高山右近に度々肉をご馳走になったという忠実が残っています。
また、高山右近は近江の国甲賀郡の出身で、近江には早くから肉食の習慣があったことがうかがえます。
しかし、牛肉にとって残念なことに、江戸時代の三代将軍家光が行った「鎖国」「キリスト教の禁止」とともに食肉も禁止されてしまいました。

そのような時代背景の中、当時の彦根藩井伊家は、譜代筆頭の大名で溜間(たまりのま)詰めという将軍の側近にあり、幕府の陣太鼓に使う牛皮を毎年献上するのが恒例で、「江戸時代、公式に牛のと殺が認められた唯一の藩」でした。

伊家三代藩主 直澄時代、家臣 花木伝右衛門は、元禄年間の食肉禁令を逃れるために牛皮を取ったあとの肉を「反本丸(へんぽんがん)」という名の養生薬として売り出しました。
そして丸薬は、味噌漬・干肉・生肉となって当時の著名人の間に広く出回っていき、彦根藩から将軍家や徳川御三家への献上品としても使われました。
また、赤穂浪士の大石内蔵助や堀部弥兵衛が、討ち入りをカモフラージュしての京都滞在中に食したとされる手紙も残っています。

肉を食べるなど、とんでもない時代でしたが、記録に残るだけでも、松平越中守、細川越中守、毛利石見守、太田備中守、安藤対馬守、松平伊豆守、佐竹壱岐守、松平丹波守、佐野肥前守、松平和泉守、内藤播磨守、さらには幕府薬法方、青木検校などの人物が食したとされています。
井伊家から献上された牛肉はご養生肉といわれ、味噌漬とするのが慣例となっていました。
このようなことから、幕府も肉食を禁止してはいたものの見てみぬふりをしていたのではないかと思われます。

そのような時代が長く続いていたのですが幕末が近づいたころ、彦根藩主・井伊直弼は、禅宗に帰依し仏法の教えを忠実に守り、牛肉を食べたり牛を殺すのを本気で禁止しました。
直弼以前は、牛肉の味噌漬や干し肉が将軍家や御三家に毎年献上されていましたが、これがピタッと無くなりました。

時、開国問題や将軍後継をめぐって直弼とことごとく対立する水戸藩主 斉昭(なりあき)は、毎年彦根藩から届く牛肉の味噌漬が大好物でした。
斉昭はいまか、いまかと一冬待ち、春になっても届かないので、しびれを切らして彦根藩江戸屋敷に使いを出し催促したところ、直弼にすげなく断られました。
桜田門で直弼が水戸浪士に暗殺された(桜田門外の変)のは、日米修好条約に勅許を得ないで調印したこともさることながら、このときの「食い物の恨み」があったと伝えられ、やはり食い物の恨みは恐ろしいと、多くの畜産史の本にエピソードとして記述されています。

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