「近江牛肉」の歴史 第二章
明治維新とともに外国交易が盛んになり、牛肉の将来性に着目した近江商人は、明治2年頃から交易の基地となった、伊豆の下田港・横浜港・神戸港へ、近江牛を陸路で追って行き外国人と直接取引きを行ない、その数は年間七千頭に達したといわれています。
明治5年に文明開化の「目玉」として明治天皇が宮中で初めて牛肉を試食された頃より、東京の日本人の肉食が盛んになりはじめました。
そして、江戸時代より明治時代にかけて文名を大いに売った仮名垣魯文(かながき ろぶん)先生の著書「安愚楽鍋」に「牛肉食わねば、開化不奴」と書かれるぐらい流行の最先端の食べ物になっていきました。
明治以降、近江牛を東京に宣伝した功労者は、蒲生郡で生産態勢を整え、輸送整備をした「西居 庄蔵」(弊社の初代)と、蒲生郡出身で東京にて、すきやき屋をした「竹中 久次」とされています。
当時西居は、はやくから牛肉飼育の将来性に着目したひとりでした。
彼は、自ら多数の肉牛を飼育し、牛馬商となって積極的に販路開拓に進出しました。
明治初期の交通はきわめて不便なため滋賀県で生産された近江牛は、東海道を陸路歩いて牛を追い、十五日ほどかかって東京にたどりついたものでした。
明治十年頃になると、東海道五十三次には、「牛宿」が設けられるようになり、はなばなしい角巻きをした牛の行列がつづき、その光景は壮観あったといわれています。
丁度このころ東京において、牛鍋屋として産声をあげた「銀座の松喜屋」と、竹中がはじめた「米久」によって、近江牛のすき焼きは一大ブームを巻き起こしました。
そして、だんだんと需要が多くなり、従来の陸路輸送では、日数がかかり過ぎ、一度に多くの牛を送ることができないなど、こんにちの我々では想像も出来ないようなさまざまな苦難と問題が生じました。
そこで明治十五年、西居は当時としては画期的な船輸送を考えつきました。
神戸港から横浜港へ日本郵船の船にデッキ積みをしたのでした。
しかし、船会社は家畜輸送を危険視して、なかなか契約に応じなかったのでしたが、さまざまな不利な条件をのんで、ついにその交渉に成功しました。
それは、航海途中で、海上が荒れるような場合には牛を海に落としても、やむおえないこと、その場合、荷積みのしるしにシッポを切って保管してあれば、運賃は支払うという契約でした。
こうして決行された海上輸送は成功し、近江牛の販路は拡大されました。
しかし、やっとのことで開拓した海上輸送も神戸から横浜という、神戸港を基地とした経路であったため、東京に入荷する肉牛が、「神戸牛」の名称で呼ばれることになってしまったことは、大変、皮肉なことであったといわれています。
