「近江牛肉」の歴史 第三章
滋賀県から東京への近江牛の出荷は、明治23年(1890)に東海道本線が全線開通するや、海上輸送から貨車輸送に切り替えられ、質量ともに飛躍的な発展をみました。
しかし明治25年(1892)大陸から牛疫が侵入して全国で大流行し、生態牛の輸送は防疫的見地から禁じられ出荷ができなくなってしまいました。
そこで考えられたのが、地元、近江八幡の武佐屠殺場(むさとさつじょう)において、枝肉に加工してから出荷する体制を整えることでした。伝染病発生にともない全国の生態牛の流通が規制されるなか、窮余の一策として講じられた枝肉による出荷により、「近江牛」の出荷数量は非常に伸び、関東地方の業者の注目するところとなりました。
近江八幡駅から、良質の枝肉が大量に出荷されるようになって、はじめて「近江牛」の真価が全国に知れわたりました。
そして、従来「神戸牛」と称せられていたものの多くは、滋賀県産の「近江牛」であることが判明しその声価は高まり、これぞ、災い転じて福となした、と言われています。
そうしたことから「近江牛」の名声は全国津々浦々にまで広がり、明治、大正、昭和の三代にわたって「銀座の松喜屋」(弊社の本家)が、宮内庁御用達として、大膳祭に陛下がお召し上がりになる「近江牛」お納めしていた事実を忘れることはできません。
大正12年の関東大震災のとき、全国から東京へ輸送してくる貨物が一時禁止されるなか、宮内庁は近江八幡駅の駅長に命じて、陛下御用の「近江牛の積み出し令」を出したと言われています。
また、昭和4年にドイツから飛来した飛行船「ツェッペリン」の機上での祝宴に、日本で一番おいしい料理のご馳走をと考えられた揚句に、「近江牛のすき焼」が提供され、乗務員がその美味に随喜したとも言われています。
昭和になって、近江牛のすばらしさを知ってもらおうと、いろいろな宣伝活動が行われました。
昭和27年、東京上空を飛ぶ小型飛行機から三頭分の近江牛肉を400gずつパラシュートにつけて、ばら撒きました。頭上からフワフワと降りてくる近江牛に人々が群がりたちまち交通渋滞を巻き起こしました。
昭和29年には、相撲の横綱さながらの美しい化粧まわし、角隠し、首飾りできれいに飾られた雌牛18頭が小雨の降るなか、トラック4台を連ねて芝浦から渋谷、新宿、神田、浅草と行進を行ったのちに、日本橋白木屋の屋上のステージでセリ市が開かれ話題を呼びました。
また、あるセリ市で近江牛の前足にマツタケの入った籠をくくりつけ、買った方には、マツタケを進呈というキャンペーンが行われました。
この他にも太っ腹で奇抜なキャンペーンがいろいろ行われ近江牛の人気は、日本国内だけでなく世界中に広まり、世界に誇る近江牛になっていきました。
